なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書) Kindle版(疲れてスマホばかり見てしまうあなたへ 読書史と労働史でその理由がわかる!)【わかるだけで解決するわけではないです】

自分に当てはまるな、という事で
なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書) Kindle版(疲れてスマホばかり見てしまうあなたへ 読書史と労働史でその理由がわかる!)【アフィリエイトリンクです】
なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書) Kindle版(疲れてスマホばかり見てしまうあなたへ 読書史と労働史でその理由がわかる!)

のKindle版を買って読んでみました。結論からいえばなんで疲れてスマホばかり見てしまう理由は仕事で忙しいから、で終わっております。解決策は仕事をほどほどに、という事で本書の最後には
「といっても、具体的な「半身社会」の実現の為のステップは本書では書けるところではない。これはあくまで、あなたへの提言だ。具体的にどうすれば「半身社会」というビジョンが可能なのか、私にもわからない。」

と記載されております。この手の本だとその解決策を期待してしまう自己啓発本に毒されている私にとってはこの本の内容はこの本で書いてあるノイズに当たるものなのでしょうなぁ。そりゃ、忙しいから読めないのはわかってんので・・・・

労働史や読書史は面白かったです。

たくさん本を読みたくなる系の本としては
News Diet(ニュースダイエット)(情報があふれる世界でよりよく生きる方法)を読んで)(2021年08月10日 (火曜日))
Amazonで「スマホ脳(新潮新書) Kindle版」をダウンロード購入して読み終えた(2021年11月02日 (火曜日))
こちらの方が個人的には好きかな。

ここからは引用とメモと一部コメント。

P14
自分の趣味関心や、生活によって生まれる文化があってこそ、人間らしい仕事が可能になる。AI時代における、人間らしい働き方。それは「労働」と「文化」を両立させる働き方ではないでしょうか。


これはほんまにそう思うねぇ。

P15
現代の労働は、労働以外の時間を犠牲にする事で成立している。
だからこそ、労働と文化的生活の両立が難しい事に皆が悩んでいる。
--これは、現代日本を生きる私達にとって、切実で困難な悩みなのです。


だからそれを解決したいのよねぇ。


P21

実はこれと同じ話が、Amazon「読書法」カテゴリランキングの1位を飾る『独学大全』にも書かれている。

勉強本を買うほどに、学ぶことに関心を持つことができた者は、それだけ恵まれているということだ。現代では、格差はまず動機付けの段階で現れる(原文注3)。そのことを薄々感じるからこそ、学ぶ動。機付けを持てなかった者は「勉強・学問なんて役に立たない」と吐き捨てるだけで済まさず、僻み根性を拗らせて、幸運にも動機付けを持てた〈めぐまれた連中〉に嫌がらせまでするようになる。これに対して、そうした連中を見下したい〈意識の高い連中〉は、自分が学ぶ動機付けを持った人間だと思いたい一心で、あれこれの勉強本を買い漁る。

(原文注3:苅谷剛彦『階層化日本と教育危機―不平等再生産から意欲格差社会へ』有信堂高文社、2001年)


いろいろ本質的な話よね・・・・

P47
大正期の話
現代も、これ以上社会不安が大きくなれば、就業と社会主義の本が流行るのかもしれない。いや、もう流行っているのか?

P59
明治の「修養」主義は、大正時代、二つの思想に分岐していった。一方が戦後も続くエリート中心の教養主義へ。一方が戦後、企業の社員教育に継承されるような、労働者中心の修養主義へ。だとすれば---本章冒頭にて問題提起した「ビジネスに使える、効率重視の教養」の正体は何なのだろう?それは一見、令和にはじめて流行したような、ビジネスパーソンの不安や焦りを反映した現代のトレンドに思える。だが、実際のところ、大正以降に分岐したはずの「教養」と「修養」が再合流したものが、その正体なのではないだろうか。


P72

「親や親戚が購入した円本全集を、子供の時に読み耽っていた」という体験談が多々集められている。まさに、親の世代は円本を買っただけで実際に読みはしなかったかもしれないが、本棚に円本を並べて「積読」していたおかげで、子に読書習慣がついたという例が多数あったらしい。

当時古本屋に出回った事が、むしろ円本の寿命を延ばした。都市部のサラリーマン達が購入した円本は、価格が大幅に下がった「古本」という姿で、より貧しい労働者や農民層へ渡る事になったのである。


いい循環がおきていたのね。


P75
つまり戦前のサラリーマンたちは、企業に決められた休日と通勤時間に本を読んでいた、という事だ。たしかに、時代小説がよく売れているのも、当時のサラリーマンが電車の中で読むのに適していたからだと考えると合点がいく。


通勤時間帯から本や新聞を読むの、太古の頃から変わらないのね。今はスマホを見てしまうが。


P76
だが一方で、安藤を研究した大城亜水(「近代日本における労働・生活像の一断面-安藤政吉論ノート」)は当時のサラリーマンの日常について、ほとんど忙殺されながら機械的な働き方をして、無気力になっていた人も多かったことを指摘する。大城は「実際の職業生活の現状は学歴(教育程度)重視で情意本意の場当たり式な人事管理が多く、また、その管理者自身も各部門間の対立、縄張り、派閥の波に巻き込まれながら、重役会議に忙殺されるという「水車式多忙幹部」の続出が相次いだ」と分析する。この姿は現代と変わらない。会議と調整に追われるいかにも日本的なサラリーマン像と何も変わっていない。


戦前から今と変わってないとか、日本がそこまでの変化を得られていないというのはちょいと絶望感がありませんかね・・・・・


P89
源氏鶏太の小説「天下を取る」が石原裕次郎主演で映画化された1960年。厚生労働省の「毎月勤労統計調査」によると、同年の労働者1人あたりの平均年間総実労働時間(事業所規模30人以上)は2426時間だったという。ちなみに2020年の労働者1人あたりの平均年間総実労働時間は1685時間なのだから、流石に働き過ぎである。現代の1.5倍近く働いている。


今でも働きすぎかもしれないよね。


P91
冒頭で言及した「花束みたいな恋をした」の主人公である麦は、労働の余暇に、「パズドラ」をして、書店で起業家の前田祐二が書いた自己啓発本「人生の勝算」を手にしていた。もしかすると、それは1960年代であれば、労働の余暇に、パチンコをして、書店で「頭のよくなる本」を手にするようなものだったかもしれない。そしてそういう人は大量にいたのだから、時代が変わっても、案外私達がやることは変わらないのかもしれない。


時代は変わっても本質は変わらないのかね・・・・・


P97
この背景にはサラリーマンたちの休息の問題がある。1970年代、サラリーマン達にとって土曜日の夜は唯一の休日前夜だったからだ。1972年5月11日号の「週刊現代」記事「平均的サラリーマンの<休日>白書」によると10人中4人が、休日は家でゴロゴロして過ごすのだそうで「ねえ、お父さん、休みなんだから家族でお出かけしようよぉ」「俺は毎日働いて疲れているんだから、週に一度の休みぐらい家でゴロゴロさせてくれよ」などという、昭和のお父さんの鉄板イメージが定着したのがこの時代。


今では基本は金曜日がこの感じで、なおかつ土日休みも多いからまあ楽になったわねぇ。


P108
会社外での自己啓発を求められたりせず、会社内ですべて仕事と人間関係を完結できていた、「小さい」会社だった時代。「その目的を疑う事すら知らなかった」楽天家達の時代。それはまさに、失われた高度経済成長期の物語そのものだった。だからこそ当時のサラリーマンは「坂の上の雲」も「龍馬がゆく」も、あんなに長いのに、それでも通勤電車で読んでいられたのではないか。ノスタルジーこそが、最も疲れた人間を癒やすことも、彼らは知っていたからだ。

P111
1970年代から言及され始めた「若者の読書離れ」という言説は80年代にはすでに人々の間で常識と化していた。読売新聞と朝日新聞で「若者の読書離れ」を問題にした記事を調査すると、80年代に激増していた。日本人はほぼ半世紀もの間、ずっと「若者の読書離れ」を憂いてきたのだ。


ずっと言ってんのね・・・・

P114
なぜ処世術やモテ術を語った「BIG tomorrow」は1980年代に人気を博したのか?答えは簡単で、サラリーマンの間で「学歴よりも処世術のほうが大切である」という価値観が広まったからだ。


BIG tomorrow (ビッグ・トゥモロウ) 2010年 12月号(2010年11月07日 (日曜日))
この雑誌、そんな昔からあったのか・・・・今は休刊しているようですが・・・・・


P122

80年代、カルチャーセンターに通う事は、一種のステータスとなっていた。なぜそれがステータスになりうるかといえば、カルチャーセンターで学ぶ事が彼女たちにとっては社会的な「教養」を身につける行為だったからだ。そう、80年代になってやっと主婦やOLにも「教養」は開かれ、そしてそれを可能とする変化のひとつにカルチャーセンターの誕生があった。カルチャーセンターに通う主婦への蔑視について、重兼は以下のように綴る。
大学が市民に向かって開かれていない限り、学問への欲求を充たすには今のところはカルチャーセンターしかない。(中略)カルチャーセンターに通う中年族をからかい、眉をしかめ、優越感を抱いて攻撃するのは主にエリートの人達だ。(中略)ようやく落ち着いて半場でやめた学業を取り戻している。それを笑う権利がどこにあろうか。少しは恥を知るがよいと私は腹の中で憤る。

翻って令和の私達の風景を考えてみると、カルチャーセンターに向けられた視点は、オンラインサロンに現在向けられるまなざしとやや似たものを感じてしまう。例えば現代で「大学」を冠するYoutubeやオンラインサロンは軽視の大正になりがちだ。そして、「自称大学」の主戦場はYoutubeやオンラインサロンなので、外野からは実像が見えない物になっています。ゆえに「信者ビジネス」「サロン会員は養分」だとか、とにかく外野からは馬鹿にされがちです。(藤谷千明「大学全入時代の<自称大学>」)

もちろんカルチャーセンターと現代のオンラインサロンでは、母体となる企業がどれだけしっかりしているか異なるだろうとか、ファンコミュニティ的な側面はカルチャーセンターにはなかったのでは、など、様々な異論はあるのだろう。が、それにしたっていつの時代も「大学ではない場で学ぼうとする人々」には蔑みの視線が向けられるらしい。


これだけ大学に入りやすい時代になっても自称xx大学(そもそもその手のオンラインサロンを作る人達がxx大学とかいう名前つけたり、そもそも大学に憧れてんやろ?)とかに入って搾取されてたらそりゃ、イメージ悪いし未だに私も良いイメージない・・・・・エリートがどうとか以前の問題では・・・・
大学ではない場所での学び場なんぞ、調べればいくらでもまともなの(国や企業や自治体やその他その他が提供)あるし・・・・大学以外の場所で学ぶ人を蔑んだ視線で見るのではなく・・・・いや、なんでもない・・・・


P137
自己啓発書。その特徴は、「ノイズを除去する」姿勢にある、と社会学者の牧野智和は指摘する(日常に侵入する自己啓発--生き方・手帳術・片付け)


P139

ここで言う「社会」とは、政治参加するような社会情勢という意味もあるだろうが、自分を取り巻く労働環境という意味も含まれるだろう。社会は、変えられない。例えば政治や戦争の悪いニュースは自分の手ではどうにもできず、搾取してこようとする他者はいなくならず、あるいは劣悪な労働環境を変えることもできない。だからこそ社会を「関連のない」「忌まわしい」ものだとして捨て置いて、帰宅後の部屋--つまり自己の私的空間のみを浄化しようとする。それこそが「片づけ本」のロジックなのである。

自己啓発書の特徴は、自己のコントローラブルな行動の変革を促すことにある。つまり他人や社会といったアンコントローラブルなものは捨て置き、自分の行動というコントローラブルなものの変革に注力することによって、自分の人生を変革する。それが自己啓発書のロジックである。その時、アンコントローラブルな外部の社会は、ノイズとして除去される。自分にとって、コントローラブルな私的空間や行動こそが、変革の対象となる。


News Diet(ニュースダイエット)(情報があふれる世界でよりよく生きる方法)を読んで(2021年08月10日 (火曜日))
この本を思い出すね。書いてある事はほぼ上記のものだ。個人的には自分でコントロールできないものを気にして本来、やらなければならない事ができないのであればそれならコントロールできないものを気にしても意味ない気がする。本来やるべき事は人によって違うだろうが、それで豊か(それか余裕、か)になり、それからコントロールできないものを気にしてもいい気がする。


P141
「片づけ本」がまさに現代で示す「断捨離」が象徴的であるが、ノイズを除去する行為は、労働と相性がいい。自分自身を整理し、分析し、そのうえでコントロールする行為だからである。


なるほどね。


P154
そもそも現代の人々が読書よりもインターネットの情報を好む理由は、ここにあるのではないか。読書はできなくても、インターネットの情報は摂取することはできる、という人は多いだろう。人文系の教授の言う事は聞けなくても、ひろゆきの言う事は聞く事のできる人はたくさんいるのだ。私達は後者を「安手」と安直に言ってしまっていいのだろうか?

今の人文系・社会学者の惨状を見ると、後者が安手じゃないでしょ・・・・・前者もでしょ。一般の人から見ればどちらも違いはありません。
下手な一般人の方が・・・・複雑な事情も理解し、あえてそういう対応になってんだと思う。そもそもあの手の方々
「水曜日のアニメが待ち遠しい: フランス人から見た日本サブカルチャーの魅力を解き明かす」Kindle版購入、書評(2016年04月12日 (火曜日))
「これは社会党やエリート、フランスの左翼風に振る舞いたがる中間層の人々によく見られる偽善的な態度で、のちに述べるように、アニメをはじめとした日本文化に対しても、同様の矛盾を噴出させていく事になるのです。」
世界中で嫌われてるじゃん。


P156
働いていて、本が読めなくてもインターネットができるのは、自分の今、求めていない情報が出て来づらいからだ。求めている情報だけを、ノイズが除去された状態で、読む事が出来る。それが<インターネット的>情報なのである。


疲れていりゃまあ、そうなるわね・・・・・


P159
情報とは、ノイズの除去された知識の事を指す。だからこそ「情報」を求める人に、「知識」を渡そうとすると「その周辺の文脈はいらない、ノイズである。自分が欲しいのは情報そのものである」と言われるだろう。

P181
大切なのは、他者の文脈をシャットアウトしない事だ。仕事のノイズになるような知識を、あえて受け入れる。仕事以外の文脈を思い出す事。そのノイズを、受け入れること。それこそが、私達が働きながら本を読む一歩なのではないだろうか?
P183
だからこそ本を読むと、他者の文脈に触れる事ができる。自分から遠く離れた文脈に触れる事。それが読書なのである。そして、本が読めない状況とは、新しい文脈をつくる余裕がない、ということだ。自分から離れたところにある文脈を、ノイズだと思ってしまう。そのノイズを頭に入れる余裕がない。自分に関係あるものばかりを求めてしまう。それは余裕のなさゆえである。だから私達は、働いていると本を読めない。


いろいろ書いたけどノイズは重要で人生を豊かにするものである事は確実だと思う。なのでたくさん本を読んだり、いろいろな所に行ったり、人にあったり。一見無駄に思えてもそれらがもっと人生を豊かにしてくれる、はずなんですが現代人、忙しいからね・・・・・


結論としてはいろいろ考えさせられる所はありました。