ネット経由で見たいと思い積ん読していた奴かな?
セガハード戦記 Kindle版
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個人的にはセガのゲームハードというのはゲーセンにいかなかったので家庭用ゲーム機の印象が強いです。初めて目にしたのは友達の家に遊びに行って見たメガドライブのゴールデンアックスか何かでしたでしょうか?ファミコン全盛の時代にこのグラフィックとか音は凄いな、と思った印象があります、ただそれだけでした。当時の小学生の頃の友達で持っていたのは1人。北海道札幌の辺境ではファミコン以外はこんなもんでした(個人的感想です、友達少なかったんじゃとかいうのはやめてw)。
そういやPCエンジンは誰の家で初めて遊んだんだっけ・・・・・ビックリマンワールドとかあったよな・・・・あれ?同じ方だったかな・・・・サイバークロスも・・・え?マジでどこで遊んだんだ、あれ。友達にゲーム機ごと借りて、家で遊んでたんだっけか?
この方の本を見ていると当時のセガは日本でも凄かったように思えるが、当時の北海道 札幌でもそんな状況だったのだろうか?最近のアニメの
★TVアニメ 16bitセンセーション ANOTHER LAYER LAYER2「いっしょに美少女ゲーム作ろ!」(2023年10月12日(木曜日))
の感想でも書いたけど首都圏と地方とじゃ大きな情報格差や印象の違いがあったのではないだろうか・・・・・マジでるろうに剣心の四乃森蒼紫じゃないけどあの幕末の時に京都にいる事が出来たのならば・・・・みたいな感覚を覚えます。
その後、高校の頃のPCエンジンDuo-RかPCエンジンDuo-RX買ってゴジラのゲームで遊んだ、天外魔境2もやったか・・・・記録、とっておくものだな・・・正確な事はわからないや・・・・
P13また、子供達にはクリスマスや誕生日プレゼントなど、年に何度か電子ゲームを手に入れるチャンスがあった。おこづかいをアーケードに費やすか、貯金して電子ゲームを買うか、子供間で派閥が生まれた(もちろん両方を手に入れた子だっているわけだが)
私らの時はゲームだけではなかったね。それこそ大型ゾイドとか。もちろん、それら全て手に入れる子もいたのだけれど。
P17エッポック社、テレビで遊ぶ野球ゲームの元祖的な存在「テレビ野球ゲーム」、1ラインしかいないとはいえインベーダーゲームを家のテレビで遊べるようにした「テレビベーダー」などを経て、低価格のカートリッジ交換式ゲーム機「カセットビジョン」を1981年に発売し、これが大ヒットする。
ファミリーコンピュータで遊びなれたあと、親戚の家にカセットビジョンがあってその何かのゲームにはまってた気がする。ドットは凄いファミコンに比べると荒いけど、ゲームとしては面白かったんだよね。
P22そして任天堂のファミリーコンピュータ。誌面で紹介されるときの写真はいつも「ドンキーコング」だった。「ドンキーコング」は2年前に大ヒットしたゲームなので、少し古くはあったが、画面はゲーム&ウオッチ版や類似の電子ゲーム版などとは比べるまでもないほど、アーケード版とほぼ同じに見える。実際に当時のライバル機と比較しても格上の表現能力を持っていて、しかも価格は14800円とほかよりも安かった。唯一、発売されるタイトル数が圧倒的に少なかったのが難点か。
しかし、当時、スプライトがあって1キャラに16バイト使って、4色使用可能って、かなり...というか、スゴく贅沢な仕様だってことをほとんど理解されなくなっているのは残念だ。
— 岩崎啓眞@スマホゲーム屋+α (@snapwith) February 26, 2023
ファミコンは当時のホビーPC,特にTMS9918系を使ったマシンと比べると卓越したビデオチップだったわけだが...
私も昔何かの記事でファミコンは枯れた技術で・・・・云々とみていたのですがそれが間違いだったのを知りました。ほぼ最先端の技術で家庭用に持ち込めるコストで、というのを知りました。
★ファミコンも当時は作るの大変だったのね・・・VB経営虎の巻「危機感が生む新コンセプト」メガチップス会長 進藤晶弘氏(2013年08月21日 (水曜日))
今回の本はそんなに技術的な濃いのは持ち込まないみたいな話が書いてあったのでその部分は紹介しなかったのでしょうけれども、あの当時のハードで凄まじい争いがあったというのが実感出来ます。
一方でこの当時のセガは、コレコビジョンの販売こそ発表したものの、本来はゲームセンターなどに向けた業務用機器の専門開発・販売会社で、玩具も含めた家庭用の商品の開発も販売もまったくしたことがなかった。そんなセガが家庭用ゲーム機の輸入販売どころか、商品開発までも自分達で行おうと考えたきっかけは1982年、任天堂にいた駒井徳造氏がセガに転職してきたことだった。任天堂のアーケード部門を統括し、「ドンキーコング」のヒットを見守った駒井氏は、任天堂のアーケード部門が縮小、閉鎖されるのを見越してセガに移ってきたのだった。しかし枯れが最初に提案した商品企画はアーケードではなく、当時国内外で話題になりつつあった、家庭用の安価なパーソナルコンピューター「ホビーパソコン」の開発だった。そこで生まれたのが「SC-3000」だ。
こういう話はまったく知らんかったわ・・・・・
実はソフトメーカーについての話題は、「SC-3000」を開発しているときにもあった。当時マイクロソフトの副社長であった西和彦氏からである。セガからSC-3000と「MSX」との協業を持ちかけたところ、西氏からは、セガ派SC-3000を売るよりもMSXでソフトメーカーになった方がいいと逆にアドバイスされたのだ。ただしセガにとって、MSXにソフトメーカーとして参入するメリットはまったくなかったので、MSXの話はそれっきりで終わっていた。
今でこそ、セガはソフトメーカーで邁進すれば、というのはわかりますがこれともう1回、ソフトメーカーでという話があったんですね・・・・・いや~ゲームの歴史、マジで面白い。
テレビ朝日のバラエティ番組「しくじり先生 俺みたいになるな!!」でメガドライブを紹介した際に有名になった、「クリスマスシーズンに飛行機をチャーターして本体を空輸した結果、ケネディ空港の倉庫がメガドライブでいっぱいになった」というエピソードは、この1991年末のことである。舩で運ぶよりも早い分、当然輸送費はかなり高額になるので、セガの利益はまったくなかったはずだが、とにかくこのときは相手よりも1台も多く本体を普及させ、シェアを獲得する必要があったのだ。
しくじり先生面白かったですね。
— Yuji Naka / 中 裕司 (@nakayuji) December 16, 2019
ソニック3が半分で発売された理由ってSVPチップの量産が間に合わないと言う理由とマクドナルドハッピーミールキャンペーンに間に合わせるのが絡んで半分になったのですが、テレビ的には難しくて説明出来ないですよね。しかし技術のセガって感じで面白かったですね。 https://t.co/54CD8q5D5e
セガ・エンタープライゼス本社の場所と建物が無くなると言うので、子供達と写真撮って来ました。ここの7階でパパがソニック作ったんだよと言ったら「へーそうなんだ」と言う感想でした。
— Yuji Naka / 中 裕司 (@nakayuji) February 24, 2019
たくさん人が集まって来たので、みんなセガの写真撮りに来たのかと思ったらポケモンGOのレイドバトルでした。 pic.twitter.com/o4XkFB0AFV
中さん(ちゅう)さん・・・・「クリスマスナイツくれ、ちゅうさん>中(なか)だ」が懐かしい・・・・・
その間、PC市場でもCD-ROMドライブ搭載のホビーパソコンが発売されていた。富士通のFM-TOWNSやNECのPC-8801MCだ。しかしどちらもやはり値段がネックとなっていた。セガもメガドライブの発表時は、当時一般的な保存手段だったフロッピーディスクドライブを予定していたくらいで(結局、未発売に終わった)CD-ROMについては発表時の拡張計画の中にはなかった。しかしPCエンジンの一定の成功や、540MBの大容量が魅力で、その後研究を進めていた。
ところが話はまだ終わらない。任天堂の発表の直後、今度はソニーから、やはりスーパーファミコン用の別のCD-ROMドライブを発売するという発表がされたのだ。後日そのソニー製ドライブは「プレイステーション」と呼ばれることが明らかになった。1つのハードから互換性のない2種類のCD-ROMが出るのかと、この発表は混乱を呼ぶ事になった。結局スーパーファミコン用のCD-ROMシステムは詳細が不明のままどちらも発売を延期し続け、ついに発売されることなく終わる(そして3年後、ソニーは自社独自のゲームハードへと進化させ、セガ、任天堂と戦うことになるがそれはまた先の章にて)
確かにフィリップスとソニーが発表してたね。という事はこれはマジでただの任天堂による牽制だった可能性あるのか?
実はこの2つのハード(ジャガーと3DO)の発表よりも少し前に、歴史を大きく変えたかもしれないターニングポイントがあった。それはセガとソニーがパートナーシップを結び1つの次世代機で任天堂に対抗するという計画である。これはセガの親会社であるCSKの大川会長とソニーの大賀典雄社長か懇意な関係であったことから始まったトップレベルの提案だったが、結局具体的な話には進展せずに物別れに終わった。理由はいくつか考えられる。ひとつに、既にセガは任天堂と互角に張り合っていたため、この勢いはこれからも続き、自分達で任天堂を追い抜けると信じていたからだ。一方でソニーは自分達の作るハードこそが次世代機競争で勝利すると信じており、セガはハード開発をやめてソフトのみに特化するよう提案していた。SC-3000のときには西和彦氏から提案され、マークⅢ誕生直前にも検討されたソフトメーカーとしての道。しかしこのときもセガはそれを選ばなかった。その後の未来を知る現在の我々から見ると、あまりに刺激的な歴史の分岐点である。
2回目のソフトメーカーへの転身のお薦め。ただ分岐していて良かったんじゃないかと思う。ここでセガと一緒になってたらあのソニーの成功はなかった気がする。
こうした映像を主軸とした技術展開を当時「マルチメディア」と呼び、ゲーム機は今後VHSビデオデッキやホビーパソコンに代わる映像メディアになるのだという未来を世間にアピールしたのだ。NECも同様で、PCエンジンでのビジュアルゲームの成功体験を元に、PC-FXにはすぐれた動画再生機能を持ったチップを搭載していた。ところが1994年になると最新ゲームのトレンドが、映像再生ではなく3Dポリゴンになった。当時、最先端のTVゲームが体験できる場であったゲームセンターでは3Dポリゴンを使ったタイトルが歓迎されており、、次世代ゲーム機ではこういうゲームが家庭で遊べるのではないかという期待にもつながった。
FM-TOWNSはハイパーメディアパソコン、その後にマルチメディアと様々なゲーム機や端末が家のテレビを占拠する未来のメディアを目指していましたね。ソニーはプレイステーションをマルチメディア機ではなく、頑なにゲーム機と言っていてそれが正解だったような気がします。漫然とマルチメディアです、ではなく具体的に何が出来ます、じゃないと誰もそんな端末、買わなかったんですよね。
3Dブームに対して先見の明があったのがPS-Xを準備しているソニーだあった。PS-Xは完全な3Dマシンであったからだ。~中略~一方セガはアーケードゲームでは3Dの先駆者であったが、家庭用向けにhあまだ2Dの時代が続くと見越してたため、3Dゲームのヒットは、自分で自分の首を絞めてしまったとも言えた。PS-Xに対抗するためには、3Dゲームが作れるハードでなければならないが、開発中の次世代機、セガサターンの性能では「バーチャファイター」を移植することは不可能だった。そこでセガは急遽3Dに対応させるべく、搭載予定の日立製RISCチップ「SH-2」を1個ではなく2個積むことで大幅なスペックアップを行った。
昔からPSの性能に驚いたセガが急遽、1個CPUを増やしてデュアルCPUにした、みたいな話は流れてた気がしますが本当だったんすね。
結果として、2種類の次世代機を発売するという判断は大きな失敗となった。スーパー32Xは予想を下回る結果となり、250万台ところか100万台も売ることができなかった。
この1994年の年末商戦に、セガが本命のセガサターンと守るべきGENESISだけに集中できず、開発ライン(そして同じチップを使っているがゆえのパーツ)の多くをスーパー32Xにも割いた結果、バーチャファイターの力で有利に運べたかもしれない日本での1年目に本体が品切れとなってしまった。また有力なタイトルが不足し、プレイステーションとの間に大きな差をつけることができなかった。またONESともこれまでのように対等な勝負ができなかった。この失敗のツケは大きく、セガはこのあと欧米でライバルに勝つことは一度もない。
優柔不断さ、そしてアメリカでのメガドライブ(ジェネシス)の強さが裏目に出ましたなぁ・・・
1988年末に発売され、90年代中期までソフトが作られ続けたメガドライブの生涯実績は日本が約350万台、北米が約1690万台、欧州が約930万台、そのほかで100万台と全世界で3000万台以上だったという事だ。これはその後奮戦するも1000万台まで到達できなかった後継機、セガサターンやドリームキャストが目指しても越えられない大きな成功であった。
その後はメガドライブのアーキテクチャは知育玩具「キッズコンピューターPICO(ピコ)」の開発にいかされ1993年に発売されるとセガトイズのもとで10年以上販売されシリーズ累計は340万台。メガドライブが形を変え長らく愛されたことになる、と。なんか似たような話、何かでも聞いたような・・・マーティだっけ?カーナビか何かでタウンズアーキテクチャがどうとかだっけ・・・あとで調べてみよう。
全世界でのセガ発売のゲームギアの販売累計は1000万台を越えており、これはポケモン以前に日本だけで1000万台を越えていたゲームボーイや、メガドライブの3000万台から見ると少ないが、セガ・マークⅢ/マスターシステムと同等の数字でセガサターンやドリームキャストを上回るものだ。
ゲームギアがそんなに売れていた印象はなかったなぁ・・・・・
次世代ゲーム機戦争、開戦前夜
現世代の覇者であった「スーパーファミコン」を擁する任天堂への挑戦権を、いったいどのメーカー(ハード)が得るのか!?というのが、当時のゲームファンの話題の中心だった。そして今では信じられないかもしれないが、春の時点でのレースのオッズでは「メガドライブ」「GENESIS」が海外で好調なセガが本命と言われていたのだ。
まあこの時、3DOは既に失速?PC-FXは主要なマーケットはとれまい、そしてソニーは新参、なので普通にセガサターンが任天堂への挑戦権を得る、と誰もがこの時は思ってたでしょうな。
余談だが、僕と同期入社したデザイナーの酒井智史はソニーの発表会後、プログラマーと共謀して、こっそりサターンの開発機で「恐竜デモ」そっくりのサンプルを作ってしまった。「あのぐらいサターンでもできる!しかもこっちは火も吐くぞ!」と彼がボタンを押すとT-REXが口から火を吹いた。枯れは無類の怪獣ファンでもあったのだ。このT-REXはのちに「ワールドアドバンスド大戦略」の隠しキャラクターとして実際にゲーム中にも登場した。
あのプレイステーション発表会での恐竜デモは確かに凄かったよねぇ・・・・・その後のプレプレで自分で動かせるデモ、ついてきたよね。
ソニーとセガがそれぞれが業界に起こした変革
ソニーは
・ゲームの主流を2Dから3Dに
・流通改革(再販お増産のしやすさ)
・ソフトの価格帯を半額近く下げお定価販売の義務づけ(のちに廃止)
・広告・プロモーション規模の拡大
この時のCMの量は凄まじいものがありましたな。いつつけてもPSのテレビCMがやっている印象。あとはこの時は東京にはいなかったからわからんけど渋谷や新宿、駅構内などもPSの広告だらけだったらしい。
あとは実際のゲームの内容を伝えるのではなくゲームはちょこっと、あとはイメージ戦略。
セガは?
そして発売から1年、年末商戦が再びやってきた。プレイステーションは1年前に出たヒット作の第2弾「リッジレーサーレボリューション」と闘神伝2、ストリートファイターZERO等がラインナップ。中でもセガの開発子会社であったはずの株式会社ソニックのスタッフが分家して作ったREG「ビヨンド ザ ビヨンド」はセガに衝撃を与えた。しかしセガサターンの年末商戦は盤石だった。まずこの1年に出たアーケードのヒット作を全部出したというラインナップが並ぶ。光線銃のバーチャガンを同梱したバーチャコップ、レースゲームのセガラリー・チャンピオンシップ、そしてリリースから1年経っても人気が衰えることのない怪物ヒット作「バーチャファイター2」である。~中略~その上ダメ押しで本体の5000円キャッシュバックキャンペーンまで開始。セガとしてはこの1995年の年末商戦がプレイステーションとの天王山だった。この戦いに勝利して、あくる年の任天堂の次世代機との戦いに挑むのだ。
そしてその結果は・・・・セガサターンの勝利に終わった。あまりに売れすぎて、大量に用意した本体の在庫がなくなってしまったほどだ。本体の販売台数は200万台を超えバーチャファイター2は次世代機向けソフトで初めて100万本の大ヒットとなった。完全勝利であった。
社員全員が喜びに沸き立った。日本で初めてセガが勝利した年末商戦だった。みんな笑顔で1996年の元旦を迎え、心穏やかに新年を過ごした。そう、あのテレビCMを見るまでは。
「ファイナルファンタジーⅦ、始動」
この引用に書いてあるとおりでございました。私はPS派でしたのでPSいいよ、いいよと周囲に話してPSを売り込んでいましたが、肝心のソフトがこのような感じで肩身が狭い思いをしていました。そして・・・・・私は1996年、年明けすぐぐらいでしたっけ?読売新聞が何かがスッパ抜いた新聞記事でスクウェアがプレイステーションに参入し、ファイナルファンタジーⅦがPSで発売される事を知りました。このニュースの影響力というか個人的に受けたショックは計り知れませんでした。え?スクウェアがFFを任天堂のハード以外に提供するの?!と!!!
そしてこのCM。
コメントにもありましたが当時のランク王国だっけ?そのCMでこれが流れて・・・・・・当時のドラクエ、FFの人気は子供達には不動、それがPSで・・・・・・やべぇ興奮状態だったのを憶えています。その後はPSの快進撃の始まりでした。鉄拳やバイオハザードが発売。
1996年はFF7体験版を目当てにトバルが馬鹿売れ。年末発売だったFF7は販売延期になったもののワイルドアームズ等のSCEの良作が次々に発売。まさに次世代ゲーム機戦争、勝負はついた!という状態でした。
ここまで熱いゲームファンに支えられてきたセガサターンに足りなかったのは、プレイステーションのヒット作にあるようなターゲットに縛られない万人向けのゲームであり、セガが苦手としてきたRPGのヒット作だった。
ですね・・・・
セガはハードを完全外注工場生産で扱うファブレスメーカーなので、本来製造に関するリスクは少ないはずであった。それでもリスクの高い自社生産・自社開発のソニーに破れたのはまずはプレイステーションのコストダウンのしやすい設計に対し、セガサターンはさいしょからそういう設計思想がなかった事、そして新ハード発表時に必要な巨額の赤字にも耐えられる資本力の差であったようにも思える。
この辺は3Dに特化した(実はMPEGカードのオプションつければ負けますが標準のセガサターンと比べると標準でモーションJPEG使えたPSの方が動画も強かった?(PSと同時発売のクライムクラッカーズでフルサイズテレビアニメーションは度肝抜かれましたし)セガサターンはソフトウェアで動画再生(シネパック1、2?))設計思想もその他その他、苦多良木さんが凄いのでしょうか・・・・・
★「久夛良木が面白かったからやってただけ」 プレイステーションの立役者に訊くその誕生秘話【丸山茂雄×川上量生】読んで当時の事を思い出した(2016年10月25日 (火曜日))
こちらのある意味、勝ち組の話も相当面白いです。
さらにセガサターンが最も好調だった1995年は、バブル崩壊後の円高が最高潮に達したときだった。数年前まで160円だった1ドルが80円を切った年である。海外販売を収益の柱としていたセガは、年末商戦で収益の悪化を恐れてハードを欠品させてしまった。もしセガが1991年の時と同じく、赤字を出してもセガサターンを限界まで出荷していたら、1996年以降の風景は違っていたかもしれない。
歴史にもしもはないけれども・・・・・・その他、ヤマハのサウンドチップとか
見ますかね>神田伯山の これがわが社の黒歴史(2)~ヤマハ・半導体の落とし穴~
— 封神龍(ワクチン4回目接種仕様) (@yuumediatown) November 23, 2021
ああ、こっちにもつながってくるのかw。
その後はマイクロソフトとセガが128bitのゲーム機云々のニュースが流れ、その後はそれが128bitかはともかくドリームキャストの話につながっていくのでした。ただ・・・DCについても結果は・・・・それでセガのハードからの撤退が確定します。モデム標準装備、ネットゲームとか着眼点は良かったのですが、早すぎました。
DCの後に出たPS2はそれこそ128bitマシン、なおかつDVD再生機能が標準搭載。その当時の一般的な人が求めていたのはインターネットではなく、DVDの再生機能+ゲームだったのです。なのでDVDのマトリックスとともに馬鹿売れしたのは有名ですわね。その後はインターネットが当たり前の時代、ブロードバンド+常時接続が当たり前になり、それでゲームのオンラインも開花します。モデム搭載でどうにかなるものではなかったのです。
そして私のゲーム時代、PS2とPSPで一度、幕を閉じるのでありました。
次のゲーム機は・・・・・一応一部携帯ゲーム機とか懸賞であたってプレイはしたものの本格的な復帰は子供が産まれ、子供が欲しがっていたゲーム機の
★子供と自分用に任天堂の携帯ゲーム機・据え置きゲーム機「Nintendo Switch(ニンテンドウ スイッチ)」購入、設定(2018年11月16日 (金曜日))
になるのでした。
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